学校の始まり
明治5年、新政府から出された新しい学生により、同7年には晩稲小学校が開校しました。
その後、各地区に次々と小学校が設立され、大正時代には農業補習学校、昭和には家政女学校もできて、教育環境は整えられていきました。
▲南部川の河原での梅の天日干し
広がる梅栽培
明治19年、晩稲の丘陵地が梅畑に開墾され、この地での梅畑経営が始まりました。 その後、これらの大流行や、日清・日露戦争で梅干の需要がのびる中、 明治34年に内中源蔵が大規模な開墾とともに梅干の加工場を始めて以来、 南部川村は梅の一大生産地となっていきました。。
▲明治の大水害
明治の大水害
明治22年8月18日から19日にかけて、台風による未曾有の大洪水が南部川村を襲いました。
すさまじい雨と烈風は、死者17名、家屋の流失・倒壊102戸の被害を出す大災害となりました。
木材や田畑の流失などの被害も甚大で米価が高騰し、人々を一層苦しめたということです。
農業の発達
明治41年、全国に県農業試験所が設けられ、南部川村にも優秀な技術者が指導に訪れ、農業の発達に貢献しました。
大正期には組合の発足により、農業経営の資金援助を受けられた農民は 能率的な大正カラスキや新案の脱穀機、荷車などを購入し、開墾を盛んにおこないました。
昭和に入ると動力を使った籾摺機や脱穀機が登場して、農業の機械化が始まります。
戦後の農業改革で農民の多くは自作農となり、水利事業や農道の整備、省力化のやめの機械も進み、農業の近代化は加速されました。
発展する梅栽培
戦後、南部川村の梅栽培は、一つの転機を迎えます。 食糧事情が全国的に良くなるにつれ、梅の消費が減少します。
しかし、村を挙げて梅の加工法や栽培技術の研究・改善、また販路の拡大に努め、 中でも「南高梅」の発見と普及は南部川村にとって、日本一の梅の里として発展するきっかけとなる重要な出来事でした。
今日、健康ブームの中、梅の人気はますます高まり平成2年に建設された「うめ21研究センター」では、 科学的な梅の研究が日々行われ、経営規模の拡大や省力化を図るための試験農場の運営も東本庄・西本庄地区で行われています。
さらに平成3年、島之瀬ダムの完成により、安定した農業用水の確保もできるようになりました。