フジロック2024 出店記③「初日」

店主のひとりごと

朝9時。
フジロックの幕が、ゆっくりと上がった。

空はどこまでも澄み渡り、柔らかな朝日が会場全体を包み込む。
山の稜線が、光を受けて輪郭を浮かび上がらせていた。
その美しさに見惚れる余裕なんて、本当はなかった。
でも、ふとした瞬間、目に入ってしまうのだ。
どこか、別の世界に来てしまったような感覚だった。

準備が万全だなんて、誰一人思っていなかった。
でも、もうやるしかない。
腹を括るしか、なかった。

「いくぞ。」

声にならない声で、そう呟いた。
スタッフ全員で小さな円陣を組んだ。
誰かが冗談を言って笑いを取ろうとしたけど、
みんなの顔はこわばったままだった。

最初の1時間は、穏やかだった。
ぽつり、ぽつりとお客さんがやってきて、
「いらっしゃいませ!」と声を張る。
少し大きすぎた声が、空に吸い込まれていく。

梅鯛茶漬けを渡したお客さんが、
「あっ、これ、うまいわ」と呟いた。

その言葉に、肩の力が少しだけ抜けた。
ああ、ちゃんと届いた。
ここに、ちゃんと自分たちの場所があるんだ、と。

だが、それはほんの束の間だった。
静けさのあとには、嵐がやってきた。

11時。
突然、オアシスエリアがざわめいた。

人が、波のように押し寄せてきた。
まるで巨大な生き物が、うねりながらこちらに向かってくるようだった。

「やばいぞ、これ……。」

視界が、人で埋まる。
列は瞬く間に伸び、ブースの前には、見たことのない光景が広がっていた。

スタッフの顔が強張る。
けれど、もう考える暇はなかった。

「梅鯛茶漬け2つ!」
「梅酢唐揚げ3つとポテト1つ!」
「梅酒、氷なしで!」

注文が飛び交う。
レジを打ち、厨房に通し、料理を受け取り、客に手渡す。
その一連の流れが、途切れることはなかった。

でも、すぐに綻びが出始める。
厨房の動線が、ぐちゃぐちゃになった。

「唐揚げまだか!」
「お茶漬けの出汁、足りるか!?」
「梅酒のコップこっち!」

声が、飛び交う。
けれど、そのどれもが届かない。
焦りだけが、空気を支配していく。

冷凍庫からの解凍が間に合わない。
氷が足りない。

「やばい、やばい……。」

誰かがそう呟いた。
でも、誰も止まれなかった。

列はどんどん長くなる。
背中に、客の視線が刺さる。
プレッシャーという言葉では足りないほどの重みが、のしかかってくる。

「すみません!お待たせしました!」

何度謝っただろう。
どれだけ手を動かしても、列は短くならない。

額から汗が流れる。
時間の感覚が、消えていった。
ひたすら、ひたすら動き続けた。

休憩?
そんなものは最初から存在しなかった。
誰かが抜ければ、その瞬間にすべてが崩れる。
それを、みんな肌で感じていた。

気がついたら、夜中の2時になっていた。
手を止めた瞬間、膝が震えた。

「……終わったんか。」

誰にともなく呟いた。
空を見上げると、満天の星空が広がっていた。

美しいなんて、思う余裕もなかった。
ただ、「ああ、終わったんやな」と、そう思った。

「これが、日本一過酷なイベントか。」

体の芯から、疲労が押し寄せた。
でも、不思議と心の中には、一つだけ、はっきりとした思いがあった。

「明日も、やるしかない。」

そう思った瞬間、
どこかで、かすかに夜明けの気配がした。

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