朝9時。
フジロックの幕が、ゆっくりと上がった。
空はどこまでも澄み渡り、柔らかな朝日が会場全体を包み込む。
山の稜線が、光を受けて輪郭を浮かび上がらせていた。
その美しさに見惚れる余裕なんて、本当はなかった。
でも、ふとした瞬間、目に入ってしまうのだ。
どこか、別の世界に来てしまったような感覚だった。
準備が万全だなんて、誰一人思っていなかった。
でも、もうやるしかない。
腹を括るしか、なかった。
「いくぞ。」
声にならない声で、そう呟いた。
スタッフ全員で小さな円陣を組んだ。
誰かが冗談を言って笑いを取ろうとしたけど、
みんなの顔はこわばったままだった。
最初の1時間は、穏やかだった。
ぽつり、ぽつりとお客さんがやってきて、
「いらっしゃいませ!」と声を張る。
少し大きすぎた声が、空に吸い込まれていく。
梅鯛茶漬けを渡したお客さんが、
「あっ、これ、うまいわ」と呟いた。
その言葉に、肩の力が少しだけ抜けた。
ああ、ちゃんと届いた。
ここに、ちゃんと自分たちの場所があるんだ、と。
だが、それはほんの束の間だった。
静けさのあとには、嵐がやってきた。
11時。
突然、オアシスエリアがざわめいた。
人が、波のように押し寄せてきた。
まるで巨大な生き物が、うねりながらこちらに向かってくるようだった。
「やばいぞ、これ……。」
視界が、人で埋まる。
列は瞬く間に伸び、ブースの前には、見たことのない光景が広がっていた。
スタッフの顔が強張る。
けれど、もう考える暇はなかった。
「梅鯛茶漬け2つ!」
「梅酢唐揚げ3つとポテト1つ!」
「梅酒、氷なしで!」
注文が飛び交う。
レジを打ち、厨房に通し、料理を受け取り、客に手渡す。
その一連の流れが、途切れることはなかった。
でも、すぐに綻びが出始める。
厨房の動線が、ぐちゃぐちゃになった。
「唐揚げまだか!」
「お茶漬けの出汁、足りるか!?」
「梅酒のコップこっち!」
声が、飛び交う。
けれど、そのどれもが届かない。
焦りだけが、空気を支配していく。
冷凍庫からの解凍が間に合わない。
氷が足りない。
「やばい、やばい……。」
誰かがそう呟いた。
でも、誰も止まれなかった。
列はどんどん長くなる。
背中に、客の視線が刺さる。
プレッシャーという言葉では足りないほどの重みが、のしかかってくる。
「すみません!お待たせしました!」
何度謝っただろう。
どれだけ手を動かしても、列は短くならない。
額から汗が流れる。
時間の感覚が、消えていった。
ひたすら、ひたすら動き続けた。
休憩?
そんなものは最初から存在しなかった。
誰かが抜ければ、その瞬間にすべてが崩れる。
それを、みんな肌で感じていた。
気がついたら、夜中の2時になっていた。
手を止めた瞬間、膝が震えた。
「……終わったんか。」
誰にともなく呟いた。
空を見上げると、満天の星空が広がっていた。
美しいなんて、思う余裕もなかった。
ただ、「ああ、終わったんやな」と、そう思った。
「これが、日本一過酷なイベントか。」
体の芯から、疲労が押し寄せた。
でも、不思議と心の中には、一つだけ、はっきりとした思いがあった。
「明日も、やるしかない。」
そう思った瞬間、
どこかで、かすかに夜明けの気配がした。
